映画のはなし

観た映画のメモ

「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」を観た

この映画を借りた、その目的は安藤サクラだった。「愛のむきだし」を観て彼女の演技に衝撃を受け、彼女の演技をもっと見てみたいと思ったのだ。

 

あらすじ:

孤児院で兄弟のように育ったケンタ(松田翔太)とジュン(高良健吾)は、電動ブレーカーでひたすら壁を壊すだけの解体現場で働く日々を送っていた。安い賃金に過酷な労働環境、そして陰惨ないじめに遭い、行き場のないいら立ちを募らせた彼らは、兄貴のいる北へ向かうことにかすかな希望を抱いて、旅に出ることにするが……。

(解説・あらすじ - ケンタとジュンとカヨちゃんの国 - 作品 - Yahoo!映画 より2016.21.23現在)

 

なんだかよくわからなかったなあ、というのが正直な感想。

 終始漂う倦怠感はとても印象的だったけど、メッセージがあるようで、しかしうまく伝わってこない。現代の若者の行き詰まりを描こうとしているのか。…しかし、だとしたら、この「うまく伝わってこないこと」そのものが、この映画が描きたい若者の姿であり、この映画のメッセージなのだろうか。そんなことを思った。

 

「よくわからない」「うまく描けていない」こそが、この映画の神髄

解体屋として、安い賃金のもと過酷な労働、孤児院で育ったので親や親戚などの身寄りもない。こんな若者にどんな明るい未来が思い描けるだろう。この映画を観てればその未来の暗さ・行き詰まりはよく分かる。

 

ただ、おそらく多くの人はこれでは満足しない。「それで、結論はなに?結局何が言いたいの?」となると思う。一般的な映画なら、「こうだ、こういうことが言いたいのだ」というメッセージがある。それがはっきりしていることもあれば、複雑に隠されていることもあるが、いずれにせよ、ある。でも、この映画には、どうやらそれがなさそうだ。「倦怠感だけ漂っていて、それで終わり」、極端に言うと、こういう言い方もできてしまう。

 

僕は、「倦怠感だけ漂っていて、それで終わり」は、割と的確な表現なんじゃないかと思う。そして、それは全然この映画の悪い点ではないと思う。なぜならこの映画そのものが、「行き詰まりを抱える若者の姿」だと思うから。曲解かもしれないけど、たとえば教育を充分に受けておらず、しかも劣悪な環境で働く若者に、「どうしたいの?」「何が苦しいの?」「どうしてほしいの?」などと質問しても、こちらがスッと腑に落ちるような答えは返ってこないように思われるな。「なんでもねえよ」と隠したがるか、「余計なお世話だ」と拒絶されるか、あるいは要領を得ない、もやもやした答えが返ってくるか。きちんと自分の気持ちや境遇を言葉にして説明したり表現したり、ということは難しいような気がする。この映画は、その抑圧や拒絶、そしてもやもやをそのまま体現しているんだと思う。だから、「何が言いたいんだかよく分からない」は、ある意味正解で、ある意味「ゴール」なんだと思う。結論が出るまでの過程をそのまま体現しているのがこの映画であり、この映画の「ゴール」。じゃあ、この映画が体現しているもやもやしたこの過程から、理想的な本当のゴールへはどうやって到達すれば良いんだろうか、と考えるのは僕たちの仕事で、この映画が教えてくれることではない。

「ONCE ダブリンの街角で」を観た

たまたまTSUTAYAで見かけて、なんとなく気になったので借りました。何となく気になったのは、この映画がお洒落な雰囲気を醸し出していて、そして僕はお洒落なものに気を引かれやすいからです。はい。それ以上の理由はありません。

 

この映画、わずか2館での上映から、口コミのみによって有名になったらしい。すごいですよね。よくある話なのかな?そんなことないか。いや、いずれにせよすごい。映画の良さだけで這い上がってこれる良さをもった、実力映画だったわけだ。

 

あらすじ:

ダブリンの街角で毎日のようにギターをかき鳴らす男(グレン・ハンサードは、ある日、チェコ移民の女(マルケタ・イルグロヴァ)と出会う。ひょんなことから彼女にピアノの才能があることを知った男は、自分が書いた曲を彼女と一緒に演奏してみることに。すると、そのセッションは想像以上の素晴らしいものとなり……。

 

こういう選択肢もあるということ 

観てみましたが、この映画、僕は好きです。なぜかというと、ラブストーリーっぽいオチをつけないラブストーリーだからです。

 

ラブストーリーっぽくないオチというのは、ありきたりなハッピーエンド、つまり、両想いの二人が結ばれて幸せになる、というラストでは終わらない、ということ。

 

なんでそういうラストが好きなのかというと、多くの現実の恋愛を肯定してくれるから。…二人は結局結ばれなかった、それでも幸せなんだよ。というか、むしろそれこそが幸せなのかもね。 って思わせてくれる可能性を秘めているから。

 

もちろん、二人が結ばれる幸せというのもある。そういうラストで終わる映画は、もしかしたら、「あの人に告白しよう、あの人に会いに行こう、あの人にライン送ってみよう、あの人に話しかけてみよう」という行動への勇気を与えてくれるかもしれない。

 

でも「あの人とは結ばれなかったんだ、よし次だ」「あの人と自分は違ったんだ、今はこうなんだな」ってところに落ち着くことを受け容れることも、また勇気。色々な道があるのです、って思いたいのでした。

 

歌声

最後に、劇中での、主人公たちの曲。主人公の歌声。とても好きです。

力強いけど切ない感じが漂う、味のあるその乾き、その響きは、この映画のストーリー全体を象徴したもの、と言ってもおかしくはない気がします。

「愛のむきだし」を観た

2016年、一発目に観た映画。目当ては満島ひかりの演技だった。

この目当ては達成され、満島ひかりの演技はとても威力のあるものだった。

ところが、この映画において演技が凄かったのは彼女だけではなかった。

 

あらすじ:

敬虔(けいけん)なクリスチャンの家庭に育ったユウ(西島隆弘)は、ある出来事を境に神父の父(渡部篤郎)に懺悔を強要され始める。父の期待に応えようと、懺悔のために毎日罪作りに励むうちに罪作りはエスカレートし、いつしかユウは女性ばかり狙う盗撮魔となっていた。そんなある日、運命の女ヨーコ(満島ひかり)と出会い、生まれて初めて恋に落ちるが……。

 

あらすじや物語の構成は今回書きたいことと関係ないので、その辺についての言及はしませんが、観ていただけると分かる通り、ちょっと変わった物語になっているのかなと思います。上映時間も4時間と大変長尺なので、その辺からもこの映画の特殊さが伝わるかと思いますが。

 

さて、今回書きたいことは、満島ひかりはじめ出演陣の演技の凄さについてである。

といっても、ただ単に「すごいと感じました」というだけのことなので、大して語ることもないのですが。

 

主演のユウ君役を演じたのは、AAAというダンスボーカルユニットのメンバーなのですね。西島隆弘。何となく見たことあるお顔だと思っていたけど、なるほどそういうことか。そして、彼にとってこれが初の出演作品であるらしい。初出演・初主演。これ、この事実にまず驚くのです。だって、彼の演技は初出演とは思えないほど上手だったから。活き活きしていたというか、フレッシュだったというか。とても心躍るような演技だった。上手く言えないんだけど。ただ、強く印象に残っているのはこのフレッシュさなのであって、それ以外のユウの印象はあまり残っていない。もっと多様な側面が印象に残っていてもいいはずなんだけど。彼にもっともっと演技力があれば…(?)。

 

そして、満島ひかり演じるヨーコの登場には胸が高まりました。どんな演技を見せてくれるのだろう。「川の底からこんにちは」とこの作品を見て思ったのは、彼女は表情と声色の変化がハンパない。わざとらしくなく、いわゆる演技っぽさも出さず、且つ大胆に大きくそれらを変化させる力をもっている。恋をしているかわいらしい女子高生の時は本当に恋しているっぽくみえて、大変かわいらしい。かと思えば、色々なものに対して反発する攻撃的な女子高生の時は本当に荒々しく、またかっこよくも見えたり。かと思ったら、新興宗教に洗脳され、何かが宿ったような、意識がこの世にないような女子高生の時は、その狂気ははっきりと体現され、そこからはある種の神々しささえ感じた。一つの作品でこんなにも沢山の顔を表現できるのは彼女の力なのだろう。とくに多様なのは、表情と声色。

そんな彼女の演技で、「うわあこれすげえ…」って最も感じたシーンは、長台詞のシーンと、その直後の呆然としているシーン。彼女自身もどこかのインタビューでこのシーンが最も印象に残っていると言っていた。特に呆けている時の表情は、本当に何とも言えない表情。何かものすごく心に響くのに、全く言語化することができない表情。何も含んでいない感じもするし、あらゆるものを含んでいる感じもする。混沌が渦巻いて鎮座しているというか、何というか。

 

最後に書いておきたいのは、安藤サクラという女優さんの演技について。コイケという女の役を演じていた。この女優さん、すごいですね。謎めいた感じ、妖艶な感じ、不気味な感じ、しっかりしててまじめな感じ、悲しい感じ、嫌な感じ、狂った感じ、普通の女の子のような感じ、などなど、ありとあらゆる人間の「質感」を彼女の演技は表現できているように感じた。その時々に、そのシーン毎に必要とされる「質感」が、必要とされるレベルを超えて、えぐいくらいに表現されていた。圧倒的な存在感。でも、それは他のものを邪魔しない。演技の怪物だと思いました。

…いや、なんかどれだけ言葉を尽くしても彼女の演技をここに表すことができない気がする。その実力により、メディアや世間は彼女に注目し始めている。今後、必ず彼女への注目はますます熱を帯びていく。それに追いつくように、彼女を語る言葉も今後考えていかないといけない。とにかく今、私なんかの圧倒的に力が不足している言語力では、彼女の演技を語ることはできない。

 

以上、3人の女優さん俳優さんの演技について感じたことをまとめてみた。

なお、本作「愛のむきだし」には、上に挙げた3人以外にも素晴らしい演技をなさっている女優さん俳優さんが沢山おられます。もしこれからご鑑賞される方は、是非その辺を楽しみに、ご覧になってみてください。

 

2015.クリスマス~年末あたりにかけて観た映画

年末までに観た映画で、ここに書き損ねている映画を、以下箇条書きでメモっていきます。本当は一つ一つ記事を作りたいところだけど、面倒くささが勝った。

 

  • スマート・アス

海外の学校にも「スクールカースト」あるんだな。モテる・モテないの境界線は何だろう。それを経済学的な実践とともに明らかにしていく、かと一見思われる青春映画。

  • 間奏曲はパリで

結婚してるのに夫や妻以外の異性と恋するのっていけないこと?結婚生活という組曲には、いわゆる「不倫」という間奏曲を挟むのもアリなんじゃない?なんて。

サンタって、不思議な存在。いるわけないって思ってる一方で、「いるんだ」って信じることを一切放棄することもない。きれいな現実へ向かうのに必要な虚構って感じだ。

  • あと1センチの恋

最初は感動、というかいわゆる「キュン」となった。少し考えてみると、あのラストは都合が良すぎるな、という印象だが、甘い気分を味わわせてくれる映画。

  • ニューイヤーズ・イブ

毎年末の定番にしたいと思った映画。これを観れば、いい気分で前を向いて新年を迎えられると思う。

2015締めの映画は何にしようかしらと、「善き人のためのソナタ」と迷って、結局選んだ1本。大声や大きな物音を立てずしてあの迫力、威圧感、威厳。

 

 

2015の4月から「映画っておもしろいかも」となって、同年の8月あたりからメモを取り始めて、同年11月あたりからこのブログを始めて。120本くらいしか観られてないけど、最初の「映画なら何でも観てみたい」という気持ちは変化し、だんだん選り好みしてくるようになってきた。さて、今後どう変化していくのか。

 

…2016から観始めた映画については、また明日あたりからまとめ始めることにします。

おわり。

 

「ショート・ターム」を観た

今、準新作でレンタル中の映画。内面に傷を負った

 

あらすじ:

問題を抱える子供のためのグループホーム「ショートターム12」で働くグレイス(ブリー・ラーソン)。グレイスは、新入りのジェイデン(ケイトリン・デヴァー)という少女を担当することになる。グレイスは施設の同僚メイソン(ジョン・ギャラガー・Jr)と付き合っていたが、ある日、妊娠していることが判明する。そんな中、グレイスはジェイデンが父親に虐待されていたことに気付き……。

(解説・あらすじ - ショート・ターム - 作品 - Yahoo!映画 より 2016.01.15現在)

 

1回観ただけでは分からなかったな、というのが正直なところ。

だから、この映画の悪い(と思う)ところは言えないな。

ただ、「幸福感を味わえる」というキャッチフレーズがあったけど、

それは感じられなかったなあ、少々残念。

 

浅い理解しかないけど、こんな状態でも、とりあえず感想を言ってみようと思う。

 

なぜ僕は幸福感を感じられなかったのか。考えてみた。

それは、映画の最中ずっとひやひやしていたから。

「いつ大事が起こってしまうのだろう」みたいな。

 

この記事を書いてる今、実際にこの話を観てから1ヶ月ほど経ってるけど、

1番印象に残っている感覚は、安心感や幸福感ではなく、不安(定)感。

あの施設にいる子どもたちやケアテイカーとしての若者、

それから子どもたちの親や施設の管理人のおじさん、

おじさんの更に上の地位の人たち…。

人々の間には、ものすごく微妙で繊細な関係性の積み木があった。

 

この積み木は、ものすごくいびつに積み上げられていて、

でもそれらは乱暴な、「まあこんなもんでいっか」という気持ちで積み上げられた

ものなどではなく、ものすごく丁寧に丁寧に積み上げられたもの。

 

どんなに丁寧に積み上げてもいびつで、すぐにでも崩れてしまいそうな積み木。

観ているこちらとしては、いつかこの積み木が崩れやしないかと不安になる。

現実の、自分の人間関係と重なるところがあるな、なんてたまに思ったり。

 

終始いびつのまま、案の定、時に小さく、時に大きく崩れたりしながらの

積み木のままで話は進んでいく。形が整うことはない。

 

観ていると、こんな思いに至った。いびつなのは、人間関係だけなのだろうか。

僕たちは大なり小なり内面に傷を負っている。いびつなのは関係だけではなく、

その関係を築く僕たちそのものも、だ。とすれば、どんな積み木だっていびつ

なのだし、積み木の形に正解はない。

 

もしかしたら、積み木がいびつでも、またが積み木が崩れてしまったとしても、

「これが私たちの積み木なのだ」「これが私たちなのだ」という一種の受容を

垣間見ること、これがこの映画の幸福感の正体なのかもしれない。

 

と思ったところでもう一度あの映画を思い出してみても、「やっぱりいびつだなあ、

いつ崩れるか気になって安心できないなあ」となってしまう。明らかにありきたりなハッピーエンドではないので、特殊な映画なのですが、それでも幸福感は味わえる(らしい)ので、気になる方は一度観てみる価値が大いにあると思います。

 

「美女と野獣」を観た

これも去年(2015)のクリスマス直前に観た。ディズニー映画は、「アナ雪」と「ラプンツェル」を観て非常におもしろかったので、そこから派生してディズニーの名作を観てみたくなったのだった。

 

あらすじ:

第64回アカデミー賞でアニメとしては初の作品賞にノミネートされたディズニー・アニメ。魔女によって醜い獣の姿に変えられた王子が住む城。そこに、ひとりの老人が迷い込む。老人を捜していた彼の娘もやって来る。娘は自分が住み込みの奉公をする代わりに、父を解放してもらう。野獣は娘とともに暮らすうちに少しずつ人間の心を取り戻していくのだが……。

(解説・あらすじ - 美女と野獣 - 作品 - Yahoo!映画 2016.01.07現在より)

 

野獣にされてしまった王子様。なぜ野獣にされたかというと、心が醜かったから。心の醜さが魔女の逆鱗に触れたから。でも、魔女は元に戻る余地を残してくれた。それは、優しい心で誰かを愛し、さらにその人から愛されること。そしてこの条件は、タイムリミット付きのものだった。

 

野獣になった王子様、最初はすごく威張っていたなあ。でも、「威張る人は実は自分に自信がないんだよね」という話をよく聞くけど、その通り。野獣は他人が自分の思い通りにならない度にウジウジ落ち込んでる。自信を打ち砕かれ、傷付いている。そんでもって、元々の威張り性に加えて、野獣になった自分の姿への自意識があるもんだから、「こんな醜い見た目だからダメなんだ」と言っている。吠える→打ち破れる→落ち込む・ふてくされる。そして見た目のせいにする。観ている人は、「見た目じゃなくて中身がダメなんだけどなあ」と思う。しかし、これを繰り返す内に、この野獣は学習能力があるから、だんだん「まともな人間性」を備えていく。観ている人も、だんだん野獣がかっこよく見えてくる…。

 

映画はこうして展開していく。「人は見た目より中身!」「優しい心が大事!」等々。これがこの映画の肝なんだろうけど、現実には「僕は自分に自信がない」「中身が大事なのは分かるけど、私はその中身が醜いの」等々、こういう人間もいる。自分の内面が醜いと思っており、「見た目より中身」ということも分かってる。だからこそダメなんだと思っている。料理とかもさ、「見栄えより味が大事」だよね。なのにその味がダメならダメダメになっちゃうよね。どうすりゃいいのさ!って、追い込まれてしまうさそりゃあさ。

 

え、ほんとどうすりゃいいの?まあ、料理の例で考えたら端的に「味を磨き上げればいいじゃん」ってなるよね。「味はまずいけどこの料理を食べて下さい」ってのは違うと思うし、「味はまずいけど食べて欲しい」もちょっと違う。「自分なりに味を磨いて、いずれ『おいしい』と言ってくれるその人が現れたら、その人を大切にしたらいいんじゃないの」って所に落ち着くような気がする。まあ、一方その相手の人も自分とっては、自分に出された料理であるわけで、自分がその料理をおいしいと感じるかどうかというのも大事なわけだけど。(料理の例の話です、隠喩ではありません)

 

あと、「中身が醜いんです」ていうのは、野獣の、「吠える→打ち破れる→落ち込む・ふてくされる」の中の「落ち込む・ふてくされる」という段階とあんまり変わらないんじゃないかなあ。どっちにしろ、いいことないよなあ。

 

おいしそうな見栄えを備えること、そして食べた時においしいと思ってもらえる味であること、どっちも大事。でも、どっちの方がより大事かって言ったら、味。多くの人は、味がおいしいことに満足感を覚える。…じゃなくて、すみません。確かに逸れも大事だと思うけど、僕がここで言いたいのは、味も見た目と同じく、磨けるものなんだから磨いたらいかがか、ということ。

 

中身や心、つまり内面も、今より洗練させる方向に頑張るのだ、と考えてみるのはどうか。

 

※まあ、現代はどういうのが「洗練された状態」なのかが分かりにくい、もしくはそんな状態なんてない、という時代になっているのかもしれない、ということは「風と共に去りぬ」のところで書いた。難しいですね、複雑ですね色々なことが。

 

おわり

 

 

 

 

 

「中国の植物学者の娘たち」を観た

この映画はたしか、何かの映画に入っていた予告版をちらっと観て気になったからだったと思う。「アデル、ブルーは熱い色」と同じく、女性二人の同性愛を描いた映画。愛の美しさ、というフレーズはくさいけど何か好き。美しさに弱い。

 

(ちなみに、これを観たのは実は去年のクリスマス前だったんだよなあ。観たのにメモを書いていない映画が結構たまっているから、ああ、書き切らないと。観てからしばらく日にちをおいて書く時に苦労するのは、この導入の部分。「こういう理由があってこの映画を選んだ」とかそういうことをここでは大体書くんだけど、そんなのはすぐに忘れてしまっているから。)

 

あらすじ:

厳格な植物学者の父親とアン(リー・シャオラン)が暮らす植物園に、実習生としてやってきたミン(ミレーヌ・ジャンパノイ)。両親を亡くし孤児院で育ったミンと、母を亡くして以来、父親と2人きりで生きてきたアンは姉妹のように心を寄せ合う。やがて2人の関係は許されない愛へと高まってゆくが、そんなある日アンの兄が現れる。

(解説・あらすじ - 中国の植物学者の娘たち - 作品 - Yahoo!映画 2016.01.05現在より)

 

中国では同性愛はタブー視されているのだろうか。もしそうだとしたら、この映画はその風潮に対して非常に挑戦的な映画だ。

 

映画は、主役二人の女性の同性愛の物語。映画の中でも、同性愛は最も重い罪としてすら扱われている。あれが中国の現状なのか、それとも以前の中国の姿か。あるいは架空の話か。よく調べてないから分からないけど、日本は同性愛に対して比較的寛容というのはよく聞く話。同じアジアでも、国によってだいぶ異なるものだな。

 

さて、この映画の最大の見所は何だろう。個人的な感想だけど、少し冒頭でも触れたように最大の見所は「美しさ」だと思う。同性愛の社会的な背景は分からないけど、映画で描かれていた二人の愛は美しかった。

 

アジア的な美しさが豊かに表現されていた感じだったなあ。色っぽさも多少はあったけど、それよりもアジアンな感じの美しさの方が目についた、印象的だった。

 

ものすごく典型的な話だけど、欧州の美は自然を人為が支配した上で成り立つもので日本の美は自然とともに成立するもの、という。この映画は中国だけど、先の区別が妥当なものなら、日本的な美に近い美しさが出ていた。水の音、草木の揺れ、木製の諸々。こういう美しさもあるんだなあ、と思った。

 

ただ、同性愛とか、人間の感情が生み出す美しさに関しては、同じく同性愛を描いたこちらはフランス映画「アデル、ブルーは熱い色」が勝ると思う。愛とか性とか、そういう美しさは醜さや汚さ、つまりリアリティを抜きにしたら描けないと思う。中国のこの映画にもある程度のリアリティはあったけど、アデルが描いた目を背けたくなるほどのリアリティに宿る美しさには劣る感じがしたなあ。