映画のはなし

観た映画のメモ

友人とのちょっとした対立

研究室、というか談話室みたいなところがあって、昨日はそこで同期・後輩と会話した。そこでたまたま「I amSam」を観た、という話になり、その時僕は第一声をこう発言した。

「あんま感動しなかった、というかのめり込めなかったなあ。」

 

恐らく彼女にとって「I am Sam」はとても感動的な映画だったに違いない、

上の発言に対して真っ先に返ってきた反応はしかめっ面と「何で?」であった。

 

これはまた後日書く予定だけど、僕はショーン・ペン(監督兼「I am Sam」では主演)が好きになれない。これが大きな理由だった。けど、別に感動の量がゼロだったわけではない。僕なりにこの映画を観て感動や考えさせられたことはある。脚本やテーマについて何も感じないわけではなく、むしろ結構考えて観ていた方だと思う。

 

「感動出来ないというか、ショーン・ペンが好きになれない」みたいにして何とかニュアンスを伝えようとしたけど伝わらなかった。推測するに彼女は「あれすっごい感動した」「感動出来るよね、泣けるよね」という旨の感想を期待していたのだろう。「大きな感動」を一番最初に持ってきて欲しかった。ところがその期待は裏切られ、帰ってきたのは否定的っぽい感想。がっかりしたのだろうとは思う。

 

前置きが長くなってしまったが、書きたいのはここから。明らかにネガティブな反応を示す彼女から次に返ってきた言葉は「知らないだけなんじゃない?」「ああいう風にしか生きられない人たちのことを知らないだけなんじゃないの?」だった。

メンタルの弱い僕はこんなんで心がぐらついてしまう。彼女が僕に敵意のようなものを持っているということ、それと僕は色んなことに目が届かない、無知で無能なやつなのかも知れないということ、多分この2つの感覚をもったことが、ぐらついた要因だと思う。

相変わらず人の敵意に敏感だし、相変わらず自分が無能であること、もっと言うと無能だと思われることへの恐怖が半端じゃないなと思った。でも、いつもならずーんと落ち込んでしまうだけなのに、今回は彼女への怒りみたいなものも沸いてきてしまって、後になって更に自己嫌悪。でもさあ、だってさあ、そんなの言われたら傷付くじゃないか。(主人公は7歳並み知能しか持たない障害者で)このような障害者に寄り添えない、心が冷たい人なんだね、って言われたみたい。人格への攻撃だよなあ。そんなん言われたらぐらっとくるし、何も言い返せなくなっちゃうよ。…はあ、悪いのは誰なんだよ、全く。

 

このときは、彼女への怒りもあるのだが、心の中でのメインイベントは、怒りという子どもっぽい(?)感情を持ってしまっている自分への自己嫌悪と、無知で無能な自分への自己嫌悪との奮闘である。自己嫌悪って、思ったけど、自分に対して鞭打ちおろしてる感じ。「こんなことで苛立つなんて、なんてダメなやつなんだ」「自分はもしかしたら何も知らない奴なんじゃないか」。

 

そこから数時間、いろいろ考えて、彼女は彼女なりに期待するものがあって、それ自体は悪いことじゃなくて、そしてそれが裏切られたからあのような言葉と態度を示したんだけど、受け手の僕はその言葉(「知らないだけなんじゃない?」)を真に受ける必要が無いということと、自分は自分なりにあの映画に向き合えていたんだということに思い至って、なんとか持ち直した。

 

次にああいう場面が来たらどうすべきなのだろうか。うーん。少なくとも、彼女に対して率直な感想を述べることは控えた方が良い。こちらの言い分は聞いてもらえそうにないから。そして、全くの嘘じゃなければ、例えば「感動したわー!」みたいに今回の件では言っても良かったし、そうすれば彼女とは楽しい会話を成立させることができる。

しかし、率直な感想を言う方が会話が盛り上がる場面や相手もあり得る。彼女は共感を求めていたが、人によっては議論を求めるだろう。それはもう経験値と判断力?直観がものをいう領域だな。結局その場で見極めていくしかないんだろう。

 

しかし、器用な人はどうやって生きているのだろう。こういう場面をどうにかして切り抜けるのだろうか。笑いや受け流しで上手いことこの状況を転がすのだろうか。それとも、そもそもこういう状況を作らぬようにその前の段階での工夫があるのだろうか。

わからないけど、神経質な自分にはまだまだお別れできないということがよく分かった今回の一件でした。