映画のはなし

観た映画のメモ

大祭のレポーターの体験と映画「イエスマン」

友達から「大学祭を取材する際のレポーターやってみませんか?」というアルバイトの声掛けがきた。その通知を見た時、一瞬で「やってみたい」「キャラじゃない」の板挟みになった。

 

ずっと「何か新しいことをやってみたい、そして変わりたい」って思ってた。その一方で「僕はこのままでいたい、かっこわるい自分は見せたくない」とも思っていたのだ。後者の思いがいつも勝って、事ある毎にこういうせっかくの声掛けを断ってきた。その結果、今までのキャラクターは守れてこれた一方で、全く変われない自分のままでここま来た。

 

だから、今回は、このアルバイトを引き受けた。自分はそういうキャラではない、今まで自分だったら絶対に引き受けていない。でも、やったことがないのに「キャラじゃない、向いてない」と判断することは時にとても愚かな判断になる、ということを今までの経験で学んだ。だから、無理矢理自分を稼働させ、引き受けることにしたのだ。

 

この無理矢理の稼働を促してくれたものがある。映画「イエスマン」を観た経験だ。

 

(この映画のあらすじは以下の通り:

いつもいつもプライベートでも仕事でも答えは「NO」だった男カール・アレンが、「イエス」といえば彼の人生がすべて変わると怪しげなセミナーで言われ、挑むはめになる。 そして、カールの人生は急展開を迎える。

ウィキペディアイエスマン』の項、2015.11.08現在)

 

「色々な物事に挑戦したり、新しいことを始めたり、キャラじゃないことをしてみたり、そういうことって、楽しんじゃってもいいことでしょ?」ってこの映画に言われているような気がした。キャラを守ることはいいけど、それで苦しくなったり楽しくなかったりするくらいなら、キャラを変えたり崩したりする楽しみに目を向けてもいいのかも知れない。こう思えてなかったら、僕は今回のアルバイトは受けてなかった。

 

 さて、肝心のアルバイトはどうだったか。実はもう終えたんだけど、やっぱり上手くいかないもんだね。緊張するし、頭真っ白になるし、恥ずかしいし、、、。普段の自分でいいって言われても、普段わりとこんな感じだし、あれ、やっぱ向いてない?ああ、なんか消耗感激しい。ぐるぐるぐるぐる、終始こんなことばかり考えていた。

さすがに後半は慣れてきて、まあまあ公開できるレベルでしょうか、、、くらいにはなっていた(と願う)。それが自分の中での救いだけど、それでも最後まで「恥ずかしいな」という感覚は消えなかったな。恥ずかしいって思いがあると、全力で楽しめないから、今思い返すとやっぱりこれは残念だ。

残念だけど、でも、今までの自分とは違うことをしたんだ、という達成感はある。よく頑張った、って言ってあげたい笑。よく引き受けた、よく勇気を出した、と。こういうことの積み重ねが、経験値になっていくんだろうなあ。人から見たらしょうもない経験だけど、今までしょうもない経験すらない人間だったんだから、経験の質を厳選してる場合じゃないんだ。

(繰り返しになってしまうけど、そんなしょうもない経験を含めて、あらゆる経験に「楽しい」という基盤を与えてくれたのが「イエスマン」という映画だった。この基盤があったからこそ、僕はがんばれた。)

 

キャラじゃないことができたという達成感、キャラじゃないという感覚からくる恥ずかしさは拭いきれなかった不完全燃焼感、今回は不完全燃焼でも今までは少しの燃焼すら拒んでいたんだからこれはこれでいいこと、以上三点、今回のまとめということで。