映画のはなし

観た映画のメモ

「時計じかけのオレンジ」を観た

この映画はSFだということを知っていたので、SFをあまり観ない僕はこの映画の鑑賞を後回しにしていたんだけど、二人の知り合いにお薦めをされたので観てみようと思った。お薦めが一人だけからだったら観てなかったかもしれない。

 

以下あらすじ引用

 鬼才スタンリー・キューブリック監督の描く傑作SF。近未来、毎日のように暴力やセックスに明け暮れていた不良グループの首領アレックスは、ある殺人事件で仲間に裏切られ、ついに投獄させられてしまう。そこで彼は、攻撃性を絶つ洗脳の実験台に立たされるが……。

解説・あらすじ - 時計じかけのオレンジ - 作品 - Yahoo!映画(2015.11.18現在)より

 

 

いやあすごいっすね。めっちゃ考えさせられる映画っすわ。

“わけの分からない感じだけど、分かる人には分かる謎映画”だと思ってた。

そんな先入観をもっていた映画だったけど、実際は全然ちがった。

 

確かに独特の雰囲気がただよう映画だし、最後だってバッドエンドなのかハッピーエンドなのかよく分からない。

でも、この映画は色々な論点をもっているし、色々なことを訴えている。

 

いっぱいあるけど、ここで書きたいことはこれ。

「何をするか選べる自由の大切さ、またはどうでもよさ」

〈※以下ネタバレ注意〉

 

脅迫されたり強制的にやらされたことに責任はない(?)

主人公アレックスは悪党、というか不良グループ?に入ってて、悪いことばっかりしてた。レイプとか暴行ばっかりしてた。その行動はだんだんエスカレートしていき、そしてある日、遂に人を殺してしまう!結局彼はその事件で捕まり、14年の刑期を言い渡される。

捕まった時に彼が(罪を逃れようとして)放った一言が興味深い。「許して下さい!僕は脅されて、脅迫されてやったんです!仕方なかったんです、僕は無実です!」 

バレバレの嘘なので全然聞いてもらえなかったわけだが、多分、本当に脅されていたという事実があるんなら罪はいくらか軽くなっただろう。強制されてやった行いは(自由意志のよって行ったわけではない行為は)責任が軽くなる感じはするよね。

―例えば、銀行強盗がAさんという一般市民を人質にとり、Aさんの頭に刃物を突きつけ「あの警備員の男を撃て」と言って銃を渡したとする。(「どんだけ武器もってんだよこの強盗」って思うかもしれないけど)で、Aさんは実際に警備員を撃って殺してしまった!とする。…Aさんが自分の頭に突きつけられた刃物おびえていたんだとしたら、1から自分で判断する殺人よりも罪が軽くなるでしょう、って直観的には思う。

 

強制された「善」

結局刑務所にぶち込まれた彼だけど、なんと刑期が短くなる方法があることがわかる。

それは、「ルドヴィゴ療法」の被験体になることだった。ルドヴィゴ療法とは、悪い人を善い人に変える(治療する)療法のことだ。その方法は暴力、暴行、レイプ等々の非人道的なバイオレンスなシーンを延々と被験者に見せ続け、被験者がそのような非人道的な行いに嫌悪感と吐き気を覚えるように仕立て上げるのである。

そのような「治療」を受けたアレックスはすっかり暴力、セックスに吐き気を覚える人間になる。「治療」成功である。殴るにも殴られるにも、関係ない人が殴り合うにも、彼は絶対に強烈な吐き気を覚えちゃうもんだから、絶対にそんな非人道的な行いはしない人間になった。ゴールに着いた。

治療が成功したことを発表するために、発表会?みたいなことが行われた。ステージの前で暴力を一方的に振るわれる。でも、アレックスは抵抗しない。だって抵抗すると吐き気を覚えるから。「人を殴ってもおかしくない局面でアレックスは殴らない!殴らないようになったんだよ!ルドヴィゴ療法のおかげで!あんなに悪かった奴がこんなに善い人間になったんだよ!」って。

ここからが興味深い。一通り発表が終わった後、聴衆の一人が怒鳴った。「彼が善行をするのはただ嫌悪感から逃れるためだけだ!選んでやってるわけではないじゃないか!彼には選ぶ能力がない!」と。…確かにそうだ。彼は善い行いをする時、殴るのをやめる時、考えて/選んで行っているわけではない。「悪いこともできます、善いこともできます、さあどっちにしよう、うーん、」って色々な理由を勘案して「よし、これこれこうだからこうしよう!」みたいな感じで善いことを行うとしたら、その人は善い人。(でも、いつもいつも何かをする度にそんなに考えている訳じゃないよね。しかし、少なくとも善い行いをした時に悪いことも“することができた”。選択肢は*1あったけど、それでも善い行いをした。だから彼は善い人間だと言える。)善いこと“しか”できない人間は、善い人間って言えない感じがする。

―例えば、善いことしかしないようにプログラムされたロボットの「善行」と治療後のアレックスの「善行」は何が違うの?人を噛まないように躾けられた犬の「噛まない」と治療後のアレックスの「殴らない」は何が違うの?

人間は、ただ他者からプログラムされるロボットとは違うし、ただ他者から躾けられる犬とも違う。自分で考えて自分で選んだ上で何かを行うからこそ立派な人間と言えるんじゃないのかなっ!

 

強制されることと善悪の責任

さて、これで最後。多分この映画が最も訴えたいことは「我々は政府や誰かにしつけられたりコントロールされたりする犬のような存在ではない!」っていう問題を考えよう、ってことなのかな。かなり重要なテーマ。で、それとは少しずれてしまうんだけど、僕が考えたいのは、同じ「強制されたこと」でも、悪いことが強制されたら罪に値しなくなるなら、善いことだって強制されたら賞賛に値しなくなるんじゃないの?ってこと。そんなに重くないテーマ。

僕たちは日々、「俺が考えたことじゃないし」「私が最初じゃないし」っていって責任を逃れたり、軽くしようとしたりする。ほとんどの人が経験したことある思考回路なんじゃないか。でも、それなら善いことだって「俺が考えたことじゃないし」「私が最初じゃないし」って考えるのが筋でしょう。悪いことをしたのが「俺の考えじゃない」、だから「俺は悪くない」と。そう言うんだったら、善いことをしたのも「あなたのの考えじゃない」なら「あなたは善くない」よね。

部下のミスは部下のミス、部下の成功は上司の成功とか、後輩の失敗は後輩のせい、後輩の成功は先輩のおかげとか、こういうのはやっぱり筋が通ってないよ。

 

いや、んー、こんなことが言いたかったわけではなかったはずなんだけど、妙なところに着地してしまった。この記事に時間注ぎすぎてなんか訳分かんなくなりかけてるな。

まあいいか。次からは普通の感想をまたどしどし書いていこう。

 

とにかく!この映画、とっても考えさせられる、いい問題を私たちに投げかけてくれていると思いますよ。もっとちゃんとした人のレビューも見てみてくださいね。

 

*1:例え無意識だったとしても

「星になった少年」を観た

あまり邦画は観ないけど、映画好きを語りたいなら邦画も観ないと。

友達が小学生の頃に観て泣いたといって、お薦めしてくれたのが今回の映画。

自他共に認める、あんまり感動しない友達が泣いたという「星になった少年」。

 

以下荒々しくあらすじ。

学校でいじめにあっていた哲夢(柳楽優弥)だったが、両親が経営する動物プロダクションが購入した仔ゾウのランディと出会い、象使いになりたいと願うようになる。そして哲夢はタイのゾウ訓練センターへ留学するが……。

(解説・あらすじ - 星になった少年 Shining Boy & Little Randy - 作品 - Yahoo!映画より

2015.11.14現在)

 

実話というのがポイントだろうか。「こんなことがあったんだなあ」って思うと

心温まる一方で、悲しくもなった、まあつまり、感動した。残念ながら友達が泣いたと言うほどには泣けなくて、この映画に対する友達の感受性の豊かさに嫉妬したんだけど。

 

とっても好きだったのが、主人公哲夢のこのセリフ。

「ゾウさんたちはお互いの気持ちをとっても上手に伝え合っています。僕は人に気持ちを伝えるのも、人の気持ちを感じるのもすごく苦手です。だから僕はゾウさんになりたいと、たまに思うことがあります。」

 

哲夢がゾウ使いになって、日本で初めてのゾウ使いのショーを行う、その開幕の挨拶の時に言った言葉だ。

 

人とのコミュニケーションが上手くいかない苦しみは分かるし、もっと分かるのが、”人よりも”上手くコミュニケーションができない苦しみ。コミュニケーションに限らず、周りが当たり前にできてることが自分にはできない、っていうのはまた違った苦しみなんだよね。哲夢は他の子とはちょっと違う少年として描かれていた。哲夢本人は、そういう’違いの自覚’をずっとずっと抱えていたんだ。それでも、うーん、何というか、前を見て生きてきているんだよね。そのセリフに耳を傾けながら「人との気持ちの通じ合い難しいよね、でも、まだまだ頑張ってみようかな」とかなんとか思ったら、なんか涙が出てきたよ。

 

でもね、僕たちはゾウさんではない。人間なんだ。僕たちは通じ合わない部分もあるけど、もしかしたらゾウたちが通じ合えない部分を、上手に通じ合えているのかも知れない。そんでもって何よりも、僕たち人間は、お互い上手く通じ合えないこと自体を楽しんだり、そこに味を見出したり、おもしろがったりしてることもある。通じ合えないからこそおもしろいんじゃないか、ってことが沢山ある。恋愛とかさ、相手の気持ちが全部分かっちゃったら全然おもしろくないんじゃないかな。

 

ということで、人の気持ちが分からなかったり、人に気持ちが伝わらなかったりすることは辛いけど、そういうのも含めて、いやむしろそういうのがあるからこそ、やっぱり僕は人間であることを嫌いにはなれないなあ、と思った今回の映画でした。

 

 

 

「アバター」を観た

興行収入不動の1位だった「タイタニック」を遂に超えた作品「アバター」。

期待して観ました。

 

以下、あらすじ(毎度引用で済ませる予定ごめんください。。)

下半身不随になり、車いす生活を送るジェイク(サム・ワーシントン)は、衛星パンドラにやって来る。彼は人間とナヴィ族のハイブリッドであるアバターに変化を遂げ、不自由な体で単身惑星の奥深くに分け入って行く。慣れない土地で野犬に似たクリーチャーに襲われていた彼は、ナヴィ族の王女(ゾーイ・サルダナ)に助けられる。

Yahoo!映画「アバター」解説・あらすじの項より 2015.11.13(解説・あらすじ - アバター - 作品 - Yahoo!映画)

 

一言で言うと、環境を破壊するのはだめだよ、っていう映画かなあ。

興行収入1位なだけあって、結構圧倒されるものがあった。

思ったことは、せっかく美しい自然を破壊する人間の愚かさと、科学のイメージについての2つ。

 

まず、音楽と映像の綺麗さがすごかった。自然の、人間が手を加えないあるがままの様々がもつ美しさを強く感じた。また、効果音も考えられていたのか、一つ一つ、耳に入る度に心地よさを感じた。

 

でも、最も描きたかったのはこうした自然の美しさではないと思う。その美しさを、美しい様を破壊してしまう人間の愚かさ、これを最も強く感じた。だって、自然の美しさを一番伝えたいなら、人間の愚かさとか破壊とかは邪魔になっちゃうから。

(余談だが、「ARIA」というアニメは、そういう美しさを描いた物語だと思う。この作品は、破壊とか敵とかあるいは凶悪な存在とかは出てこず、本当に美しい部分しか描いていないし、だからこそ伝わるものがある。美しさは対比がなくても伝わると思う。)

作中に出てくる、自然をがっさがっさ破壊する人物たちにすごい怒りを覚えたし、そういう人たちを止めようとする主人公一団に強く感情移入してしまった。「どうしてそこまでして破壊したいんだ、納得できる説明をしてくれ。もっと話し合おうよ、こんなに意見も感情も対立してるんだから。なんでそんなに強行できちゃうの?」って。悲しくて泣いてしまったよ。

 

もう一つ思ったのは、破壊する側が戦闘機とかロボットとか、最新の科学を駆使して破壊活動を行っていたので、とっても科学(技術)が悪いものに見えてしまっていたことについて。

ああいう描き方をしたら、どうしても科学=悪、自然=善って見えちゃう。でも、科学が悪なんじゃなくて、科学を利用して自然を支配したり破壊したりするやつが悪なんじゃないの?こんな描き方しちゃってほんとにいいの?って思いながら観ていた。登場人物の中には、科学的な理由から破壊に反対するグレースという素晴らしい女性科学者がいたけど、多分あれが現実の?科学者でしょう。むしろ、破壊する側は科学的な理由になんて全く基づいていなくて、(政治的な理由とか経済的な理由?)彼らはただ科学を破壊の道具として使っていただけだ。あの映画を観て、「科学(技術)の使い方には注意が必要だな」って思うのはいいけど、「科学ってやっぱクソだな」って思うのは間違い。包丁を使って人を殺した人を見て、「包丁ってクソだな」と思うことと同じ。

 

小さい子どもが、あの映画を観て自然の美しさを認識するのはとてもいいこと。でも、それと同時に科学へのマイナスイメージはもってほしくないな、と思った。

 

 

大祭のレポーターの体験と映画「イエスマン」

友達から「大学祭を取材する際のレポーターやってみませんか?」というアルバイトの声掛けがきた。その通知を見た時、一瞬で「やってみたい」「キャラじゃない」の板挟みになった。

 

ずっと「何か新しいことをやってみたい、そして変わりたい」って思ってた。その一方で「僕はこのままでいたい、かっこわるい自分は見せたくない」とも思っていたのだ。後者の思いがいつも勝って、事ある毎にこういうせっかくの声掛けを断ってきた。その結果、今までのキャラクターは守れてこれた一方で、全く変われない自分のままでここま来た。

 

だから、今回は、このアルバイトを引き受けた。自分はそういうキャラではない、今まで自分だったら絶対に引き受けていない。でも、やったことがないのに「キャラじゃない、向いてない」と判断することは時にとても愚かな判断になる、ということを今までの経験で学んだ。だから、無理矢理自分を稼働させ、引き受けることにしたのだ。

 

この無理矢理の稼働を促してくれたものがある。映画「イエスマン」を観た経験だ。

 

(この映画のあらすじは以下の通り:

いつもいつもプライベートでも仕事でも答えは「NO」だった男カール・アレンが、「イエス」といえば彼の人生がすべて変わると怪しげなセミナーで言われ、挑むはめになる。 そして、カールの人生は急展開を迎える。

ウィキペディアイエスマン』の項、2015.11.08現在)

 

「色々な物事に挑戦したり、新しいことを始めたり、キャラじゃないことをしてみたり、そういうことって、楽しんじゃってもいいことでしょ?」ってこの映画に言われているような気がした。キャラを守ることはいいけど、それで苦しくなったり楽しくなかったりするくらいなら、キャラを変えたり崩したりする楽しみに目を向けてもいいのかも知れない。こう思えてなかったら、僕は今回のアルバイトは受けてなかった。

 

 さて、肝心のアルバイトはどうだったか。実はもう終えたんだけど、やっぱり上手くいかないもんだね。緊張するし、頭真っ白になるし、恥ずかしいし、、、。普段の自分でいいって言われても、普段わりとこんな感じだし、あれ、やっぱ向いてない?ああ、なんか消耗感激しい。ぐるぐるぐるぐる、終始こんなことばかり考えていた。

さすがに後半は慣れてきて、まあまあ公開できるレベルでしょうか、、、くらいにはなっていた(と願う)。それが自分の中での救いだけど、それでも最後まで「恥ずかしいな」という感覚は消えなかったな。恥ずかしいって思いがあると、全力で楽しめないから、今思い返すとやっぱりこれは残念だ。

残念だけど、でも、今までの自分とは違うことをしたんだ、という達成感はある。よく頑張った、って言ってあげたい笑。よく引き受けた、よく勇気を出した、と。こういうことの積み重ねが、経験値になっていくんだろうなあ。人から見たらしょうもない経験だけど、今までしょうもない経験すらない人間だったんだから、経験の質を厳選してる場合じゃないんだ。

(繰り返しになってしまうけど、そんなしょうもない経験を含めて、あらゆる経験に「楽しい」という基盤を与えてくれたのが「イエスマン」という映画だった。この基盤があったからこそ、僕はがんばれた。)

 

キャラじゃないことができたという達成感、キャラじゃないという感覚からくる恥ずかしさは拭いきれなかった不完全燃焼感、今回は不完全燃焼でも今までは少しの燃焼すら拒んでいたんだからこれはこれでいいこと、以上三点、今回のまとめということで。

「ニューヨークの恋人」観た

タイトルの通り。ジャンルはラブコメ

 

感想、とても面白かった。笑った。

 

ざっくりしたあらすじは、以下の通り。

1876年ニューヨーク。貴族のレオポルド公爵は、ブルックリン橋で挙動不審な怪しい男性を追いかけていくうちに、現代のニューヨークへとタイムスリップしてしまう。当初は、歴史と文化の違いに戸惑うものの、居ついたアパートで知り合ったキャリアウーマンのケイトや、ケイトの弟チャーリーと過ごすうちに徐々に現代の生活になじんでゆく。そしてケイトと恋に落ちるが、過去の人であるレオポルドは元の世界に戻ることを決意する。

ウィキペディアニューヨークの恋人』の項より、2015.11.06現在)

 

前提を置かせて下さい。

コメディ映画には、2つの視点があると思う。

1つはコメディの視点、もう一つはコメディがくっついてるものの視点。

コメディって、それ単独で成立するものは少ない。何かにくっつく。

例えばラブストーリー、ヒューマンドラマ、SF、等々。

「笑いだけです」っていう映画は少ないんじゃないかなあ。

この映画で言えば、これはラブコメだから、ラブの視点とコメディの視点で分割しようと思えばできてしまう。分割して観ると、楽しい部分が純粋に楽しめる。

 

それを踏まえた上でこの映画の感想を言うとすれば、

コメディ要素はすごくおもしろかったー笑

レオの持つ過去の文化とケイトのもつ現代の文化の”違い”

この”違い”というものがあるからこそ、とても笑える面白いものになってた。

笑いを改めて言語化すると無粋な感じになってしまうからあまり言わないけど、

レオがまじめに振る舞えば振る舞うほど、その振る舞いと現代の文化とのギャップが笑いに変わる。過去と現代ではなく、個人と社会間での違いや集団間の違いも、それがまじめな振る舞いならば笑いに変えちゃえばいいのに。あいつはおかしい、あの集団はおかしい、というのは確かに危険な集団やアブナイ人への警戒心としてもっておいてもいいけど、違いっていうのは楽しみの材料にもなるんだよ、て言われてる気がした。

 

ラブ要素については、なんか大変だなあ、と思った。コメディを成立させるためにご都合主義?なってて、でもこの都合あわせがないとコメディはなかったし、ぜんぜんいいんだけども、まあ、現実の恋愛はこうはいかないよなあ、なんて思ってしまった部分も。具体的に何が不満か、っていや別に不満なんて全然ないんだけど、もしリアルとこのフィクションの違いを言うとしたら、(ほんのちょっとネタバレ、以下注意)最後、ほんとにあれで良かったの?あれで良かったとして、あれは(リアルに照らすのが許されるとしたら)ハッピーエンドなの?

…、ぐちゃぐちゃ考えたけど、映画的にはとってもハッピーエンド。あのエンドがあるから僕はこの映画が大好き。でも、リアルはああはいかない。そして、ああはいかないからこそ、リアルの恋愛は多分楽しいんだ。って思ってしまう僕の恋愛観は多分悲観的。

 

メグ・ライアンはチャーミングな?楽しい演技をする人だね。なんか可愛いと思ってしまったし、面白かったし、みていて楽しい気分になれる演技だった。彼女の他の、また違ったキャラの演技を見てみたいと思った。ヒュー・ジャックマンは「レ・ミゼラブル」で1回見てたけど、気迫というか迫力、オーラ、みたいなのを出すシーンが好きだ。「おお」って押されるあの感じは彼独特のものだろう。一方で、紳士的な優しさもこの映画での見所だと思うんだけど、その優しさ・柔らかさはあの気迫があればこそのものだとも感じた。

 

終わり。

友人とのちょっとした対立

研究室、というか談話室みたいなところがあって、昨日はそこで同期・後輩と会話した。そこでたまたま「I amSam」を観た、という話になり、その時僕は第一声をこう発言した。

「あんま感動しなかった、というかのめり込めなかったなあ。」

 

恐らく彼女にとって「I am Sam」はとても感動的な映画だったに違いない、

上の発言に対して真っ先に返ってきた反応はしかめっ面と「何で?」であった。

 

これはまた後日書く予定だけど、僕はショーン・ペン(監督兼「I am Sam」では主演)が好きになれない。これが大きな理由だった。けど、別に感動の量がゼロだったわけではない。僕なりにこの映画を観て感動や考えさせられたことはある。脚本やテーマについて何も感じないわけではなく、むしろ結構考えて観ていた方だと思う。

 

「感動出来ないというか、ショーン・ペンが好きになれない」みたいにして何とかニュアンスを伝えようとしたけど伝わらなかった。推測するに彼女は「あれすっごい感動した」「感動出来るよね、泣けるよね」という旨の感想を期待していたのだろう。「大きな感動」を一番最初に持ってきて欲しかった。ところがその期待は裏切られ、帰ってきたのは否定的っぽい感想。がっかりしたのだろうとは思う。

 

前置きが長くなってしまったが、書きたいのはここから。明らかにネガティブな反応を示す彼女から次に返ってきた言葉は「知らないだけなんじゃない?」「ああいう風にしか生きられない人たちのことを知らないだけなんじゃないの?」だった。

メンタルの弱い僕はこんなんで心がぐらついてしまう。彼女が僕に敵意のようなものを持っているということ、それと僕は色んなことに目が届かない、無知で無能なやつなのかも知れないということ、多分この2つの感覚をもったことが、ぐらついた要因だと思う。

相変わらず人の敵意に敏感だし、相変わらず自分が無能であること、もっと言うと無能だと思われることへの恐怖が半端じゃないなと思った。でも、いつもならずーんと落ち込んでしまうだけなのに、今回は彼女への怒りみたいなものも沸いてきてしまって、後になって更に自己嫌悪。でもさあ、だってさあ、そんなの言われたら傷付くじゃないか。(主人公は7歳並み知能しか持たない障害者で)このような障害者に寄り添えない、心が冷たい人なんだね、って言われたみたい。人格への攻撃だよなあ。そんなん言われたらぐらっとくるし、何も言い返せなくなっちゃうよ。…はあ、悪いのは誰なんだよ、全く。

 

このときは、彼女への怒りもあるのだが、心の中でのメインイベントは、怒りという子どもっぽい(?)感情を持ってしまっている自分への自己嫌悪と、無知で無能な自分への自己嫌悪との奮闘である。自己嫌悪って、思ったけど、自分に対して鞭打ちおろしてる感じ。「こんなことで苛立つなんて、なんてダメなやつなんだ」「自分はもしかしたら何も知らない奴なんじゃないか」。

 

そこから数時間、いろいろ考えて、彼女は彼女なりに期待するものがあって、それ自体は悪いことじゃなくて、そしてそれが裏切られたからあのような言葉と態度を示したんだけど、受け手の僕はその言葉(「知らないだけなんじゃない?」)を真に受ける必要が無いということと、自分は自分なりにあの映画に向き合えていたんだということに思い至って、なんとか持ち直した。

 

次にああいう場面が来たらどうすべきなのだろうか。うーん。少なくとも、彼女に対して率直な感想を述べることは控えた方が良い。こちらの言い分は聞いてもらえそうにないから。そして、全くの嘘じゃなければ、例えば「感動したわー!」みたいに今回の件では言っても良かったし、そうすれば彼女とは楽しい会話を成立させることができる。

しかし、率直な感想を言う方が会話が盛り上がる場面や相手もあり得る。彼女は共感を求めていたが、人によっては議論を求めるだろう。それはもう経験値と判断力?直観がものをいう領域だな。結局その場で見極めていくしかないんだろう。

 

しかし、器用な人はどうやって生きているのだろう。こういう場面をどうにかして切り抜けるのだろうか。笑いや受け流しで上手いことこの状況を転がすのだろうか。それとも、そもそもこういう状況を作らぬようにその前の段階での工夫があるのだろうか。

わからないけど、神経質な自分にはまだまだお別れできないということがよく分かった今回の一件でした。